これまでの歩み
「kondo vineyard」は、2007年に初めての畑が開墾されました。しかし、現在の畑とワイン造りに対する考え方は、そこに至るまでの10数年間の経験が重要なベースになっています。少し長くなりますが、これまでの歩みをまとめましたのでお付き合いください。
この世界に入るきっかけ
1997年、ミレニアムへのカウントダウンがそろそろ始まるころ、私は神戸のとある大学を卒業しました。周囲の友人たちが忙しく就職活動に精を出す中、当時の私はひたすら何とも言えない違和感に悩まされる日々でした。
自分がこの先したいことって何だろう・・・?
自分の進路を決める上で、誰もが一度は思い悩む道。
考えを突き詰める中で、漠然と近い将来に起こるであろう地球環境の変化に不安を抱いていた私は、食料を造る仕事、つまり農業を仕事にすることを思いついたのでした。北海道の母方の実家で野菜を造っている姿は小さいころから見ていましたし、農業さえやっておけば、とりあえず何か大ごとが起こっても食べるには困らないだろう、と。
今考えると馬鹿ばかしいぐらい単純で自己都合的な解釈ですが、それから20年以上経った現在の状況を見てみると、少なくともそれほど良い方には傾いていないのが、悲しい事実でもあります。
まだワインとはほとんど無縁の時代ですが、これが最初のきっかけです。
そしてウタシナイへ
同じ年の秋、北海道で農業をはじめるべく公的な支援機関に進路の相談をした私は、「歌志内(ウタシナイ)市でワイン用ぶどうの栽培技術者を募集しているけどやってみないか」という紹介を受けました。
え、ウタシナイってどこ?ワインって飲んだこともないんだけど・・・。
人生とはわからないものです。ぶどうとワインには全く興味のなかった私ですが、孤立無援で農業を始めるよりも、生活の基盤が安定した状況で第一歩を踏み出した方がいいかな、という日和見的な考えもあり、歌志内へ行くことを決めたのでした。
1998年の1年間は、歌志内へ行く前の準備段階として、余市のぶどう栽培農家さんの畑で研修を受けることになりました。私の知る限り個人の農家としては当時国内最大規模の栽培面積を持つ、藤本農園がその研修先でした。親方の藤本さんは先進的で、私にとっては現在でも「超人」のような存在です。ここで1年間学んだことが、自分の農家としての基礎であり、本当に貴重な体験でした。
そして1999年から2006年にかけての8年間、途中でぶどう畑が民間会社に譲渡されるという環境の変化はあったものの、歌志内という「日本一小さな市」の別名を持つ小さな町の畑で、ワイン用ぶどうの栽培にひたすら関わり続けました。
運命の出会い
歌志内での1、2年目はほとんど手探り状態。3、4年目でおおまかにぶどうの生理と1年間の作業サイクルを把握し、自分なりの考えがまとまり始めたのは5年を経過した頃でしょうか。
転機が訪れたのは、2005~2006年にかけての最後の2シーズンでした。
2005年には、古くから技術交流のあった「ナカザワヴィンヤード」の中澤さんの縁もあり、栃木県のココ・ファームワイナリーで委託醸造をさせていただく幸運に恵まれました。
これは、本格的に仕込みの経験をさせてもらった初めての機会でもあり、ワイン造りに対するスタッフの実直な姿勢と技術力の高さに、少なからず衝撃を受けました。ワインって本当はこのように造るものなのか、と。
そして忘れられないのが2006年の春。
ココファームのスタッフとともに、フランスのシャンパーニュ、ロワール地方への研修に参加をさせていただき、まさに「本当のワイン造り」をしている人たちに出会ったのでした。自分には及びもつかないほど深くぶどう畑とワイン造りを愛し、さらには自らの農業、生活、その全てを支える未来への地球のあるべき姿にまで思いを馳せる人たち・・・。
独立から現在まで
2007年、現在の「kondo vineyard」にいたる長い道のりが、遅まきながらスタートしました。
まずはどこに畑を拓くか。
北海道は、国内では最北限のぶどう栽培地です。ここ数年、北海道内で続々とぶどう畑を拓く人たちが増えているものの、ワイン用ぶどうにとっては寒さ、雪の問題などギリギリの環境であることには変わりありません。畑の立地は、おおげさではなく人生を左右するほどの大きな決断です。
結果的には、様々な縁があり、三笠市の達布地区に畑を拓くことを決めました。現在ここの畑は、その地名から「タプ・コプ農場」と名付けられています。日当たり、土壌、その他もろもろの気候風土・・・希望を言えばきりが無い中での決断は、結局は畑に対する自分自身のインスピレーションと人の縁でした。
2007年夏、約20年間耕作放棄地となっていた雑木と雑草だらけの傾斜地を、ブルドーザーを借り、地道に開墾する作業を始めました。現在、畑の真ん中に何本も樹が立っているのはその名残です。
ニセアカシア、シラカバ、カラマツの林を1本ずつ切り倒し、葛(クズ)や笹の根を掘り起こしながら苦闘の連続でしたが、約1ヶ月かけてどうにか農地らしい形に復元することができました。
2008年春、開墾した農地のうち、約0.6haにぶどうを植え付けました。
内訳は、ソーヴィニョン・ブランが0.3ha、白系7品種の混植が0.3haです。
混植については別に詳しく説明しますが、ソーヴィニョン・ブランは、歌志内時代に注目していた品種の一つで、2005年にココファームで委託醸造させてもらったときに、後の可能性を大きく感じる品種でもありました。
2009年、ピノ・ノワールが0.2ha増え、栽培面積は0.8haになりました。
この年は春に強烈な遅霜があり、その後も冷涼な気候が続いて、「つる割れ病」が多発しました。また、畑の周辺が山林に囲まれていることから野うさぎに苗木がかじられ、農業の厳しさをまざまざと思い知らされる年でした。
また、自然農の木村秋則さんの栽培法をヒントに、地力増進のためにぶどう畑の合間で大豆の栽培も始めました。
2010年、ピノ・ノワールをさらに0.3ha、レンベルガーを0.1ha増やし、合計栽培面積は1.2haになりました。
最初に植えた樹が3年目を迎え、ようやく収穫かと思ったのもつかの間、猛暑と多湿の影響もあってこれまでに経験のない病害虫が出現し、また、2年続けて野うさぎの被害を受けて、予定した収穫量はその2割にまで落ち込みました。まだまだ知らないこと、やらなければならないことが山積みであると痛感した1年でした・・・。
そして2011年、また一つの転機が訪れます。
三笠のタプ・コプ農場から15kmほど離れた岩見沢市栗沢町茂世丑に、自宅に隣接した畑を新たに開墾することとなりました。畑の名前は、これも地名から「モセウシ農場」となります。
現在、モセウシ農場にはぶどうの苗木で約6,000本、2.0haの植栽がされています。タプ・コプとは異なる気象、土壌条件にあることとこれまでの経験から、全体の6割程度まで混植を増やし、また接木をしない「自根」比率も、全体の3割程度に高めています。主な植栽品種は、ピノ・ノワール、ソーヴィニョン・ブラン、ピノ・グリ、オーセロワ、ゲヴュルツ・トラミナーなどです。苗木は、2022年から同じ栗沢町内の「藤吉農園」さんに生産を委託していて、地域内で安心して苗木の供給がまかなえる環境が整いました。
また、2012年から同じ三笠の達布地区にある山崎ワイナリーさんで2年間の研修を終えた弟が農家として独立し、タプ・コプの畑の一部を管理することとなりました。2012~2014年までの3年間でピノ・グリやシルバーナーなどを新たに植栽し、現在2人合わせて植栽本数約6,000本、2.0haまで面積が増えています。
少し長くなりましたが、これが現在の「kondo vineyard」につながるストーリーです。偶然のように見えるその時々の心の持ちようと判断、そして多くの人との出会いの連鎖の中で、現在の私のワイン造りが成り立っていることが、今振り返ると不思議な必然のようにも感じられます。